将棋ソフトに関する片上千田論争?

論争というと煽りすぎですがw

片上さんのブログ内容に対して、千田さんからのリアクションがありました。観る将の方々はおそらく既に知っている話と思いますが備忘録として。

以下長いですが片上さんのブログからの引用。

http://shogi-daichan.com/2017/12/11/将棋世界-3/
千田六段や増田四段の説明は、うまく急所をとらえていて解説者視点でも、参考になりました。ただ彼らは、人間の棋譜は並べないそうで、これからそういう発言をする棋士が増えてくるのかと思うと、正直言ってちょっと心配です。何せ我々は、その自分たちの棋譜を売って(スポンサードしてもらって、観てもらって)生きているわけなので。自分たちの世界の大切な商品ですから、棋士ひとりひとりが、その価値を高める発言を心掛けるべきと個人的には思います。

いっぽうで、強くなりたいという純粋な気持ちは大切だと思いますし、棋力を高めるためにプロの将棋の必要性が相対的に下がっている、という事実も直視しないといけません。僕はこのことには単なる強さとか勝ち負け以上に悩んでいて、プロがコンピュータ将棋を最終目標にしてどうするの?という気持ちはこうなったいまでも非常に強くあります。プロの将棋を勉強することは、少なくともいまの自分レベルでは(つまりアマチュアの方々にとってももちろん)有用な方法と信じています。



以下、千田さんの一連のツイート












片上さんの問いは直接的には「プロがコンピュータ将棋を最終目標にしてどうするの?」ではあるものの、もっとも本質的な部分として「棋力を高めるためにプロの将棋の必要性が相対的に下がっている」のであれば、棋士はどうするべきか?ということなのです。

これに対して千田さんの答えとしては「最終目標はコンピュータ将棋ではなく棋力を上げること」であり、そのためのコンピュータ将棋はそのためのツールに過ぎず、「人間の対局の鑑賞する価値」は変わらないと主張しています。

微妙に両者の食い違いが見られます。

今のコンピュータ将棋は、多くの人間にとっては正しい入力に対して、かなりの精度で正しいであろう回答を示すものの、ソフト同士の対戦を観賞用として楽しむのは難しいと私は思います。一言でいうと前衛的すぎるというか、人間の脳みその仕組み上、意味のないところでも意味を読み取ろうとしてしまうため、すんなりと受け入れ難い棋譜が多い印象です。

その一方で、人間の将棋はどうでしょうか?コンピュータ将棋が人間を上回ったのは既に明らかになっていますが、藤井聡太四段のデビューや加藤一二三先生や桐谷さんの芸能界での活躍、羽生善治永世七冠の誕生など、これまで以上に将棋の話題が世間を賑わせています。棋士に魅力があれば、棋士の指す将棋に魅力があれば大丈夫であることの証のようにも見えます。

コンピュータ将棋がどのように進化していくか?がこの辺りに大きく影響していきそうです。もし人間同様に魅力的な棋譜を数多く残せるようになれば、「棋力を高める題材として,ソフトよりも棋力が劣るため,人間の棋譜の必要性や価値が下がる」のが自然であるように、観賞用としても人間の棋譜の必要性や価値が下がるのでしょう。(人によっては既に鑑賞ですらソフト同士のでよいという人も居ますが、多くの人にとってはまだそうではありません)。

それでは「棋力を高めるためにプロの将棋の必要性が相対的に下がっている」についてはどうでしょうか?「鑑賞する価値」≒「トーナメントプロとしてのプロ棋士の価値」だとすれば「棋力を高めるための価値」というのは「レッスンプロとしてのプロ棋士の価値」といえるでしょう。千田さんにその意図がなかったかもしれませんが、上記の発言は「レッスンプロとしてのプロ棋士の価値」を貶めるリスクがあると言っているに等しく、そのことこそが、片上さんの懸念なのではないでしょうか。

ここは出版社に聞いてみたいところですが、戦術本の売上はここ数年どうなっているか?というのは個人的に興味があります。売上というと電子は手数料を抜かれてしまうので、純粋な冊数でいうとどうなのか。例えば戦術本は右下がりで、それ以外のムックっぽいもの、観る将棋ファン向けのものは微増、とかだった場合は、棋力を高めるための価値が減じており、鑑賞の魅力は保たれている…といえるかもしれません。

私が思うのはコンピュータ将棋の進化的に、例えば開発状況をみる限り、鑑賞する価値を高めるような方向での成長はないような気がしています。なのでこれまで以上にプロ棋士の鑑賞面の価値をこれ以上損なうことはないのではないでしょうか。(無根拠ですが、棋力を高める方向の開発が鑑賞しやすい方向の成長に貢献するようにはみえないのですがどうでしょうか?)

「棋力を高めるための価値」でいうと、「ソフトの棋譜とプロ棋士の棋譜」の関係は「筋トレと種目練習」の関係に近いように感じています。これまでも定跡や終盤の寄せパターン、詰将棋という勉強方法はそれだけで成り立つものではなく、実戦との組み合わせで効果を発揮してきたのではないでしょうか。筋トレで得た筋肉を、種目練習を行うことによって実際の動きに関連付ける…というような。

ただここはもしかすると、プロ棋士の棋譜を並べるという作業を省略して単に実戦に置き換えられる可能性はありますが、ここは今までも同じだったように思います。指す将な方々で全くプロの棋譜を気にしない人たちは今までも一定数居たからです。

レッスンプロの存在意義、もっと直接的に「指導将棋」という意味でいうと、ここは棋譜の鑑賞性という話に寧ろ近く、プロ棋士のコミュニケーション能力だったり、人柄や容姿だったりの魅力に依存している気がします。将棋ファンの棋力の散布具合とプロに挑む手合いのバランスを考えると、大部分のアマが自身の棋力よりも高めに申告し、安い駒を落として戦っている気がします。それにプロ棋士が接待で付き合っている、という印象。指導将棋でメキメキと実力を上げていった例は寧ろ少ないのではないでしょうか?指導将棋は実力向上の場というよりは、実力向上の度合いを測ってもらうための場、という印象があります。

というわけで、片上さんと千田さんの主張は微妙に食い違いつつも、ソフトの成長がプロ棋士に悪影響を及ぼすことはあまりないかな?と思います。それよりは寧ろ、新聞社など一部の企業に依存しすぎているビジネスモデルというか構造にこそ、将来的なリスクが潜んでいるのではないでしょうか。

このあたりは、AIと人間の関わり方の将来像をもしかして示しているかもしれません。以下、梅田望夫氏が羽生善治の永世七冠達成について読売新聞に寄稿された文章から一部引用(羽生さんの発言部分を引用)します。

将棋の世界でも囲碁の世界でも、人工知能が棋士を凌駕してしまった。人間の知能を人工知能が超えたとき、私たちはどう生きればよいのか。社会はどのような挑戦に立ち向かなければならないのか。「棋士たちや将棋界は、そんな未来社会の問いに先駆けて直面している、人工知能が社会で応用されていくときに想定される事態を先取りしている」と羽生は色々な場所で発言している。



人工知能というのは、いわゆる特化型と汎用型に分けられるわけですが、汎用型の開発めどは立っていないはずで世の中にあふれる人工知能的なものは、将棋ソフトを含めて特化型に属するものです。私がみていて思うのはこれらの特化型の人工知能は人間の職を脅かすとか奪うというよりは寧ろ、人間の能力を拡張したり手助けする方向に作用する可能性が高いのではないか?ということです。

勿論、その流れの中で失われていく職業がゼロではないにせよ、見る限りにおいては人工知能の発展がなにか免罪符として利用された上でリストラされていくような気がします。既にオワコンだったものが体よく切られていく印象というか。具体的にはメガバンクで最近報道されていた人員削減などがそれに該当します。

将棋ソフトの登場により、それをうまく活用する棋士たちによって、新しい世界が広がりました。予定調和的な人間が築き上げた定跡よりももっと荒々しく陣形の整いきらない前に開戦するような将棋で、私個人としてはとても楽しく見ています。勿論色々な考え方があるべきで、全員がソフトを活用する必要もないと思いますが観賞用の棋譜としての魅力は高まっているのではないでしょうか。

ただ、何度も書いている話題ではありますが、スポンサーのおかれる環境が大きく変わったときにどうなるのか。たとえば団塊世代が健康寿命を終えるまでにあと20年もありません。新しく叡王戦のスポンサーについてくれた企業も経営成績の苦戦が伝わってきます。

もしかすると個々の棋士が人工知能に脅かされるリスクよりも、スポンサー企業群のビジネスモデルが人工知能や人工知能を活用したものに脅かされることによって、その悪影響が棋士や将棋界に及んでくるリスクのほうが大きいのではないかな?と個人的には思いました。

テーマ : 将棋 - ジャンル : ゲーム

Tag : 羽生善治 片上大輔 千田翔太