購入検討者タイプ別「変わりゆく現代将棋」お勧めポイント

購入から早数週間が経ち、一通り読み通したのもかなり前だったのだが、なかなか感想を書けないでいた。羽生善治という現代将棋における第一人者がその全霊を傾けた作品に対して、おいそれと軽々しく評価するというのがおこがましいと思われたからだ。(ではそれ以外の書籍はどうなのか?とその他書籍の関係者の方に怒られそうだが…)。

発売直前に、私が何気なく書いたこの変わりゆく現代将棋に対する印象について、編集アドバイザリとして関わったと思われる梅田望夫氏から望外のリアクションを頂いた。嬉しかったとともに、いつもの如くタッチタイピングの早さ(過去経験した特殊な業務に関係する理由により私のタイピングは職業タイピスト並に早い)に任せて自動書記したものだったので、やや戸惑を覚えた。

しかし、本書を購入し、上巻のまえがきを読んだ時にその梅田氏の反応の意味を理解した。

まず最初に梅田氏からリアクションがあった当ブログの記事をやや長くなるが引用紹介したい。

(変わりゆく現代将棋というタイトルの連載で)始まったのは例の77銀か66歩かという哲学的な問いだったのだ。正直に記せばあの連載が進むに連れて私の期待は失望に変わっていった。これは私にとって、アンドリューワイルズがフェルマーの最終定理を証明するための重要な一部分を、(聴講者に対してはその目的を秘したまま)大学院の講義で数カ月にわたって行うのだが、最初はいた受講生が何をワイルズがやろうとしているのか分からなくなって聴講から脱落していき、最後は証明するのを手伝う別の教授とふたりだけの授業になっていくのだが、そのエピソードを思い出させるものだ(名著です→フェルマーの最終定理 (新潮文庫))。或いはこの連載を出版という形で掘り起こしたのが梅田望夫氏だったことを考えると、梅田氏がこの羽生善治の授業の最後の聴講生だったのではないか?とすら思える。

あとで振り返ってみると、俯瞰して眺めると、これが矢倉という戦型のどの部分の話だったのか?というのが分かる。上記の私の感想である「急戦の話が多い」というのは連載当時は全く意識していなかった(というか正直に記すとそのうち流し読みするようになった)ので、羽生善治が何をやっているのかさっぱり分からなかったのだった。

これは、言うなれば羽生善治という天才が独力でナスカの地上絵を製作する作業を地べたで、その脇で、リアルタイムで眺めていたというのが当時の状況だったのではないか。

そういう意味において、この「変わりゆく現代将棋」という本は、単なる定跡本ではない。羽生善治の頭の中にある「巨大な地上絵」の一部を観光するような経験を我々にもたらす本なのかもしれない。


最後に、目次だけの記事について示唆を与えてくれた梅田望夫氏に感謝したい。この追記部分は、私の感想としては恐らく連載当時からあったものだが、氏によって完全な形のまま掘り起こされた土器、のようなものだからである。

遂に発売する「変わりゆく現代将棋 上下」(最後に追記有り)



梅田望夫氏は私の

この「変わりゆく現代将棋」という本は、単なる定跡本ではない。羽生善治の頭の中にある「巨大な地上絵」の一部を観光するような経験を我々にもたらす本なのかもしれない。


という言葉に大いに反応されたように思われた。


以下、上巻のまえがきより全文引用。

将棋の定石は日進月歩で変化をしていきます。特に長い年月、たくさんの対局が行われた型は、着実に体系化が広がっていきます。矢倉は私が将棋を覚えた頃は特に多く指されていました。中原先生,米長先生,加藤先生の出場するタイトル戦は、なんといっても相矢倉が主流を占めていました。

現在はそこまで指されているわけでは有りませんが、それでも現代将棋において重要なポジションを占めるのは間違いありません。この本の中では,いかにして現代の矢倉が出来上がってきたかのプロセスについて説明をしてあります。

当然ながら変化が多いので少し難しいところもあるかもしれません。しかし、多くの棋士たちが一つ一つのブロックを積み上げて、この建造物を作り上げたのは事実です。

そして、ここに現れていない手が、今後の“新手”として指されることになるのです。将棋は似て非なる局面が山ほどあり、そこが面白さの一端です。読者の皆様にそれを感じていただけたら、とても嬉しいです。

平成22年3月 羽生善治



羽生善治が書いたこのまえがきからみると、私が上記記事にて書いた「変わりゆく現代将棋」に対する理解というのは正しかったのだと思う。そして同様の認識で誰よりも早く、強く本書の価値について確信を持っていた梅田望夫氏は出版前に似たような捉え方をしている人間を発見し、観る指すにかかわらず、将棋ファンに受け入れられるであろうと(上から目線で恐縮だが)励まされたのではないか。そのように、私は考えたのだった。

ここまでが上巻のまえがきまでの私の感想だ。この調子で行くと、変わりゆく現代将棋並に感想がながくなってしまいそうなので(或いはそれがこの本の書評のとしては正しいのかもしれないが)、以下はなるべく簡潔に進めたい。

ここから先の想定読者は、「現在まだ変わりゆく現代将棋を買っていないが、購入しようか迷っている人」である。そしてその購入検討者のタイプ別にオススメポイントを記していく。



■完全な観る将棋ファンの場合

指さない将棋ファンにとって、上巻は大いなる頂としてそびえ立つだろう。とはいえ、懐に余裕があるのであれば、上巻下巻セットでお買い求めするほうが本棚の見栄えはする。そのぐらいの装丁にはなっているので、本という物質に愛着をもつ人は書店で是非手にとって欲しい。(現代に生きる大山振り飛車も同様のスタイルで私は好きだ)。上巻を買った場合、最初に必ず「まえがき」をじっくりと読んで欲しいと思う。難しいことを簡単に語る能力に長けた羽生善治という棋士が、苦心して書いた結果がこの本書だと思えば、この本に難しさを感じた場合、同時に将棋の奥深さを体感できるのではないか。

もし観るファンが上巻から買うのであれば、細かな手順を追うのではなく、各章の最初にある「案内図」のあたりをじっくりと読むのが良いと思う。そこから面白そうな変化のみを追う。

昔、どの家庭にも百科事典や辞書が書斎の本棚の一角を占めていたが、全ページを読むことはなかったと思う。将棋という日本古来の文化における矢倉という主戦法のひとつの歴史についての教科書、というような位置づけで興味を持った部分だけ読む、というぐらいで。

下巻も同様。ただし両方購入した方は先に下巻の161ページ「矢倉、その進化の歴史」から最後までを先に読むのがよいかもしれない。或いはもっと観るに特化した人であれば、231ページの対談から。

お勧めコースとしては、対談→矢倉の歴史→各章の見出し→各章で興味を持った変化という感じだろうか。



■観る指す兼用のファン(振り飛車党)の場合

アマチュアに多い振り飛車党の場合、これは観るファン同様に躊躇することがあるだろう。生粋の振り飛車党で一生それしか指さない人もいることはいるが(そして万年三段ぐらいでとどまる人が多いが)、やはり棋力を高めたいのであれば、居飛車はやっておいて損はない。

そして本書における急戦矢倉はあそびの無い駒落ち定跡のように、一手一手の意味・価値が高いので学ぶことによる棋力への効果は大きい。特に(最近の振り飛車は違うが)横の将棋と縦の将棋の感覚の違い、殴り合いによる一手違いの攻め合いの面白さを居飛車を指さずとも味わえるだろう。



■観る指す兼用のファン(居飛車党)の場合

これは級位者からプロまで持っておいて損はない。自身の序盤手順から出てくるであろう形を重点的に学ぶのも重要だが、この上下巻セットで「矢倉急戦の塊」の鳥瞰図として頭に入っていると急戦だけで食えそうな気がする(ほぼ急戦矢倉しか指さない、あくまでも私の願望)。

この網羅性は今までの将棋定跡本にありそうでなかったと思う。序盤の数手はとりあえずこう進めるところで、と前提をおいた上で、そこから先の分岐を舗装していくというのが従来の「定跡本の定跡」だったわけだが、この「変わりゆく現代将棋」は序盤から双方妥協せずに初手から勝ちに行ったときどうなるのか?という研究であり圧倒的に濃度が違う。

一手一手の難しさでいえば、他棋書とそれほど変わらないと思うのだが、その濃密さを難しさと捉えているのではないか。超低温に対した時にそれを熱さと捉えるように、従来の感覚で感知しなかったものがそこにあるような気がしている。

けもの道を切り開いていく過程を、読者に共有させるためにその再現性が高いが故に開拓の苦難を経験しているのではないか。そして私は、この本が書かれた時期と、羽生善治が高速道路理論に至った時期が一致するであろうことを直感する。

梅田望夫氏の「変わりゆく現代将棋は本当に難しいのだろうか?」という問いは、氏がほぼ唯一の真面目な読者であり、実際に読み通してみて難しいとは感じなかった(或いは他の専門的な定跡書と同程度の難しさだと感じた)ことによるものであろう。そして、それに対する私の答えとしては上記の通りである。

やや推奨点という意味においては話が逸れたが、上記のような意味合いにおいて、先人たちが何もないところから、目の前の道をHackする(切り開く)過程を追体験するということが何らかの棋力への影響をもたらす可能性はあるし、純粋に居飛車党ならば愉しみを感じることができると私は思う。(そういう意味では羽生さんはハッカーですね)。



■週刊誌的楽しみ方をしたい人の場合

本書は先後妥協しない結果として矢倉急戦大全となっている。当然、阿久津流への分岐はあるのだが、その先は阿久津流にも、二つの渡辺新手にも届いていない。このあたりを踏まえて、まえがきを再読した時の味を堪能してほしい。

また、もっと下世話な考えで行くと、竜王戦で二連続新手を出した渡辺竜王は、果たしてこの連載での羽生の研究範囲、理解範囲を認識した上であの手をあの場所で繰り出したのかどうか?という点も興味深い。ただし、オチを書いてしまうと、これには渡辺本人がブログにおいて、この連載を読んだ時期を語っており、竜王防衛後であることを明言している…のだが、それは本当なのかどうか?という歴史検証もどなたかに行って欲しい。(どこまで行っても推測の域をでないので私は行わないが。)


なかなか書けなかった「変わりゆく現代将棋」の感想文、上手く書けた気はしないが、とりあえずこの辺で締めさせて頂く。



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「将棋観戦記」というブログで、プロ棋士の将棋を観戦して思ったことを記しています。棋力はありませんが、将棋観戦の楽しさを一人でも多くの人に知ってもらい、「観る将棋ファン」を増やすために貢献できればと思います。主に順位戦速報・タイトル戦等、ネット中継されている将棋を中心に将棋観戦記を書いています。棋譜・符号はなるべく用いずに、将棋のルールが分からない人でも、将棋の勝負の面白みが伝わるように努力します。

基本的にはリアルタイムでの将棋観戦中に思ったことを書き溜めつつ、対局終了後の感想を付け加えて、将棋対局のあった翌日の朝7時頃にアップされるように将棋観戦記を予約投稿しています。「一日一観戦記」をモットーにしているので、同日にネット中継が重なった場合は、対局の重要度を個人的に評価して観戦記の投稿日を調整しています。

将棋観戦中に書き始め、対局が終了すると思われるところから観戦記を完成させていることが多いです。文章内の形勢判断は個人的主観によるもので、観戦中の控え室のプロの意見を取り入れず、将棋ソフトの解析を行なっていないため、形勢判断が正しくない可能性があります。

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